大判例

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東京地方裁判所 昭和51年(ワ)752号 判決

原告

板花久視

原告

板花喜代子

右両名訴訟代理人

久留達夫

関島保雄

被告

学校法人東京医科大学

右代表者理事

馬詰嘉吉

被告

本多煇男

右両名訴訟代理人

饗庭忠男

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告らは、各自、原告板花久視に対し、金一二二九万一六九三円、原告板花喜代子に対し、金一一〇三万四六九三円及び右各金員に対する被告本多煇男は昭和五一年二月二二日から、被告学校法人東京医科大学は同年同月二四日からそれぞれ支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決及び仮執行の宣言を求める。

二  被告ら

主文と同旨の判決を求める。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告板花久視(以下単に「久視」という。)、同板花喜代子(以下単に「喜代子」という。)は、亡板花興昭(以下単に「興昭」という。)の父母である。

(二) 被告学校法人東京医科大学(以下単に「東京医科大学」という。)は、教育基本法及び学校教育法に従い医科大学その他の教育研究施設を設置することを目的とし、附属病院を有している。被告本多煇男(以下単に「本多」という。)は、同大学の教授であり、同大学附属病院に勤務している。

2  興昭の発病、被告東京医科大学との診療契約及び興昭の死亡に至る経過の概要

(一) 興昭(昭和四四年四月二〇日生まれ)は、昭和四九年八月八日、四〇度近い高熱を出し、顔面が紅潮し、頸部のリンパ線が腫脹するなどの症状が現われた。同日月本医院でリンパ腺炎との診断を受け、自宅で治療をしていたが、その後も高熱が続き、同月一二日には胸をかきむしるような仕種を示し始め、強い頭痛を訴え、両眼球の結膜が充血してきたので、同日山口医院の診療を受けたところ、脱水症との診断を受け入院して治療を受けた。しかし、依然として四〇度前後の高熱が続き、更に舌乳頭が苺様に腫大し、四肢末端に硬性の浮腫ができる等の症状が現われたので、原告らは、同月一六日、興昭を被告東京医科大学附属病院に転院させた。

(二) 原告らは、右同日、興昭の法定代理人として、被告東京医科大学との間で、興昭に対し診断及び治療をなすことを内容とする診療契約を締結した(以下「本件診療契約」という。)。

(三) 興昭は、右同日、被告本多から、急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群(以下通称を用いて「川崎病」という。)との診断を受けた。

(四) 興昭は、同年一〇月一日に被告東京医科大学附属病院を退院し、以後翌昭和五〇年四月一七日まで十数回通院した。

(五) 興昭は、昭和五〇年五月三〇日、三八度五分の発熱があり、腹痛を訴え、都立大塚病院で胃腸炎との診断を受けたが、翌三一日に熱も下がり、治癒した。ところが、同年六月四日朝、興昭は寝床で急に腹痛を訴え、吐きそうにした。原告久視が胃腸薬を飲ませ寝かせていたが、急にあくびをして倒れ、そのまま死亡した。死因は、川崎病の後遺症である冠動脈血栓症であつた。

3  被告らの損害賠償義務(被告東京医科大学の債務不履行(不完全履行の内容)及び被告本多の不法行為)

(一) 興昭が被告東京医科大学附属病院で診療を受けた当時の医学水準では、川崎病及びその後遺症について、次のとおり理解されていた。

(1) 川崎病の原因は不明であるが、乳幼児に発生する病気で、必ず次の症状がある。

(イ) 抗生物質に不応の五日以上の発熱

(ロ) 両側眼球結膜の充血

(ハ) 四肢末端の変化として、急性期には硬性浮腫、掌蹠紅斑又は未端紅斑、回復期には爪皮膚移行部からの膜様落屑

(ニ) 口唇口腔所見として、口唇の乾燥、紅潮亀裂、舌乳頭腫大(苺様変化)、口腔咽頭粘膜のびまん性発赤

(ホ) 体幹の水疱、痂皮を形成しない不定形発疹その他参考症状として、非化膿性拇指頭大以上の頸部リンパ節腫脹、白血球の増多、血沈促進、CRP陽性等の症状を伴うことがある。

(2) 川崎病に罹患すると、冠動脈の動脈炎をおこし、それが進むと冠動脈瘤を形成し、冠動脈瘤部位に血栓を形成すると血栓性閉塞により死亡することがある。死亡率は平均1.7パーセント、男児の場合2.8パーセントで、赤痢による死亡率のほぼ二倍の高率である。死亡例はほとんど冠動脈の血管炎と動脈瘤形成及び血栓性閉塞により死亡したもので、川崎病は小児期に心筋梗塞をおこす代表的疾患である。

(3) 死亡にまで至らなくても、冠動脈病変を後遺症として残す例が多く、次のような研究結果が発表されている。

(イ) 冠動脈造影をした結果、三一パーセントに動脈瘤がみられ、血管壁不整等の異常所見を含めると六三パーセントに冠動脈異常がみられた(久留米大学加藤裕久)。

(ロ) 八〇パーセントに心臓障害が認められ、冠動脈造影の結果一〇例中八例に冠動脈異常を認めた(東京女子医科大学草川三治、浅井利夫)。

(ハ) 六二例中約二〇パーセントに冠動脈瘤が認められ、閉塞、狭小化、蛇行、壁の不整を含めると全体の約六〇パーセントに冠動脈異常が認められた(東京女子医科大学)。

(4) 川崎病の患者に対しては、血栓性閉塞による死亡の原因となる冠動脈瘤を発見することが最も重要であり、右冠動脈瘤の発見には、冠動脈造影が有効で確実な方法である。

(5) 乳児、特に男児で、発病当時①二週間以上の発熱②二峰性発熱や発疹③血沈の三週間以上の促進④ショック様症状⑤ギャロップリズムの出現⑥心尖部収縮期雑音の出現⑦心電図変化として、ST低下、PR・QTC延長、不整脈の出現、等の所見がある場合には冠動脈異常の可能性が高いと判断できる。

(6) 冠動脈瘤を発見した場合、又はその存在を疑つた場合には、血液抗凝固剤(ワーファリン)の使用、心電図等の諸検査による経過観察、運動制限などの生活指導を行なうことによつて、冠動脈瘤部位の血栓形成を防ぐことができる。

(7) 冠動脈瘤部位の血栓形成が原因で死亡する場合、その直前に胸、腹痛や嘔吐を伴うため、右症状発生後直ちに治療を加えれば、死亡を防ぐことができる。

(二) 被告東京医科大学は債務者として、同本多は現に興昭の診療に当る医師として、興昭に対し、右医学水準に沿つた診療をなすべき義務があつたにもかかわらず、次のとおり、これを怠り、被告本多がこれを怠つたのは同人の過失によるものである。

(1) 興昭には、急性期(発病から退院までの間)に、二週以上の発熱、三週以上の赤沈促進、心雑音心尖部収縮期雑音があり、心電図におけるPR延長・ST低下・不整脈がみられ、また、血小板の増加(73.5万)等の臨床経過があつたのであるから、臨床所見からだけでも冠動脈瘤が形成されている可能性が高いと判断すべきであつたが、被告本多は右可能性はないと誤つた判断をした。首のこり、頸部リンパ節の腫脹に対しても単に首又は脳に異常があるものと誤信し首のレントゲン及び脳波検査をするなどの誤つた検査をして冠動脈瘤異常について十分な検査をしなかつた。

(2) 興昭は重症であつたから、冠動脈瘤の形成を疑い、より確実な診断方法である冠動脈造影をしてその発見につとめるべきで、被告東京医科大学附属病院に冠動脈造影の設備・技術がなかつたのなら、それが備つていた東京女子医科大学等へ転院をさせてでも、検査すべきであつたのにこれを行なわなかつた。

(3) その結果、実際は、興昭には発病後早い時期に(第三〜第四週)冠動脈瘤が形成されていたにもかかわらずこれを発見することができず、ワーフアリン等の抗血液凝固剤を使用し、運動制限等の生活指導をするなどして、血栓形成を阻止すべきであつたのに、これを怠つた。

(4) 興昭の退院に際し、原告らに対し、後遺症の説明をし、血栓形成による急死の危険性があることを注意して、興昭が胸や腹の痛みを訴えたり、吐いたり、顔色が悪くなつたら、すぐに来院するようにとの指示をすべきであつたのに、これを怠つた。このような指示を受けていたら、原告らは、興昭が腹痛を訴えたとき被告らの診察を受けて、血栓形成による死亡を防止する措置をとることができた。

(三) 興昭は、被告らが右のとおり義務を怠つたために、死亡するに至つた。原告喜代子は、退院後も、被告本多に対し熱心に後遺症についての検査を希望したが、被告本多は専門医として右後遺症の危険性を熟知しながら検査と治療を拒否したため、原告喜代子が心配していたとおりの結果になつたのである。

(四) 右のとおりの義務違反があつた(被告本多については義務違反についての過失もあつた)から、被告東京医科大学は本件診療契約の債務不履行(不完全履行)に基づき、被告本多は不法行為に基づき、原告らが蒙つた損害をそれぞれ賠償する義務を負うべきである。

4  損害

(一) 興昭の逸失利益 九〇六万九三八七円

〈中略〉

(二) 興昭本人の慰謝料 五〇〇万円

〈中略〉

(三) 原告両名の慰謝料 各自三〇〇万円

〈中略〉

(四) 葬祭費 一二五万七〇〇〇円

〈中略〉

(五) 弁護士費用 二〇〇万円

〈中略〉

(六) 〈省略>

5  〈省略〉

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実は、(一)のうち興昭が昭和四九年八月一六日被告東京医科大学附属病院に来院したことは認めるが、その余は知らない。(二)ないし(四)は認める。但し川崎病との確定判断に至つたのは、同月二八日である。(五)のうち興昭が死亡したことは認めるがその余は知らない。

3  同3の事実は争う。川崎病については、昭和四二年川崎富作氏により従来発表されたどの疾患にも属さない新しい疾患である可能性が高いものとして、「乳幼児にみられる急性、熱性、紅斑性疾患の自験例五〇例」について発表がなされて以来研究が進められてきているが、未だに病原、病因は不明である。発症機序、診断基準、治療対策についても変遷を重ねてきている。本件当時、心臓障害についての医学上の予見可能性が医師の義務不履行ないし過失判断の対象として確立しているとはとうていいえない状況であつた。

4  同4の事実は争う。

三  義務違反の主張に対する被告らの反論(積極否認の主張)

1  被告東京医科大学病院における入院中、退院後の治療管理は、急性期はもちろん、退院後においても当時の医療水準に基づき適正になされた。その経過は次のとおりである。

(一) 入院時の診断

次の各所見に基づき、昭和四九年八月二八日、川崎病と診断した。

(1) 入院時外来所見(湯沢寛医師)

顔貌・軽度苦悶、口唇・落屑、左頸部リンパ節・鶏卵大、咽頭及び口腔粘膜・発赤、舌・苺様、肺・呼吸音粗、肝腫大・二横指、脾腫(?)、頸部強直及び病的反射・ケルニツヒ(±)ラセグー(±)以上の所見から川崎病、敗血症を疑う。

(2) 入院時所見(牛山充医師、主治医)

肝腫大・六cm、脾腫(−)、頸部リンパ節両側・大豆大・二ケ〜三ケづつ、鼠蹊部リンパ節両側・小豆大・二ケ〜三ケづつ、眼球結膜及び眼瞼結膜・充血、口唇・落屑、指・硬性浮腫(+)、足の第一指・両屑。

以上の所見から川崎病と考えたが、その他鑑別診断として感染、白血病、溶連菌感染症、中毒疹の疑もあつた。

(3) 検査所見

血液……白血球増多・血小板やや増多・やや貧血・血液像は右方へ移動、赤沈・亢進、検尿・(±)(蛋白)、血液生化学検査・肝機能充進・A/G低下、ASO・正常、CRP・6(+)以上、RA・(−)、動脈血培養・(−)、咽頭培養・ヘモフイールス、心電図・正常。

以上の検査データがそろい、他の疾患との鑑別を行つた結果川崎病と診断した。

(二) 入院中の検査、治療

別紙検査表のとおり定期的に諸検査を行なうとともに、ステロイド剤投与などの治療をした。その主な変化は次のとおりである。

(1) 昭和四九年八月二六日・心電図異常、心陰影やや拡大し、プレドニン一〇〇mg(ほゞ五mg/kg)増量

(2) 八月二八日・血小板数七三万五〇〇〇と高値を示したので、ウロキナーゼの使用を考える。同日以後は心電図で異常を認めず。

(3) 九月七日以後ほとんど心収縮期雑音を認めず。

(4) 九月一三日以後、肝腫大を認めず。

(5) 九月一七日・白血球数、正常となる。

(6) 九月二三日・ステロイド剤投与中止。

(7) 九月二七日・赤沈ほぼ正常。

(8) 九月三〇日・赤沈上昇、発熱と考え合わせて扁桃腺炎によるものと診断する。

(三) 退院時の説明

興昭が昭和四九年一〇月一日に退院した際、原告喜代子に対し、外来には二週間に一度位は来院すべきこと、後遺症はいつ発現するかわからないこともあり、心電図に異常があれば、再入院して冠動脈造影をすることもある旨説明した。

(四) 退院後(通院)の診療〈略〉

2  右治療、管理の過程で、冠動脈瘤の存在を疑うべき所見はなかつたのであるから、被告本多が興昭に冠動脈瘤が形成されていたことを発見しなかつたからといつて義務不履行はないし、もとより過失はない。具体的にいえば、次のとおりである。

(一) 聴診所見で心音異常心雑音、特に僧帽弁閉鎖不全性逆流音があれば冠動脈瘤を含む心臓障害が疑われるが、本件では、興昭に心音異常も、僧帽弁閉鎖不全性逆流音もなかつた。

(二) 心電図で最も重要な変化は、Ⅱ、Ⅲ、Ⅴ9Fの深いQ波の出現であり、これに加えて臨床症状として顔色不良、頻脈、不機嫌、嘔吐を伴うときは心筋梗塞発作と考えられるが、本件では、このような所見、臨床症状はなかつた。

(三) ほぼ同一条件の胸部X線写真で五%以上の変化があれば心拡大と判定され、特に二か月以上心拡大の続く例では、冠動脈瘤後遺症の発生頻度が高い。しかし、本件では、右のように冠動脈瘤の発生を予想しうるようなX線所見は全くなかつた。

3  本件当時の医療水準においては、医師は、川崎病の診療として、一般的にいつて冠動脈造影をなすべき義務はなかつたし、仮にそうでないとしても、被告本多は、本件当時の医療水準に基づき、次の理由により興昭に対して冠動脈造影をする必要がないと判断した。

(一) 入院中においては、冠動脈造影法を実施することにより、心室細動等死亡の危険がある合併症を生ずるおそれがあること、当時被告東京医科大学病院では、川崎病患者に対し冠動脈造影法を用いたことがなく、危険率の予測が充分でなかつたこと、心電図変化は一過性であり、他に心疾患を思わせる著変はみられなかつたこと。

(二) 退院後においては、冠動脈に病変を生じやすい時期(発熱後二ケ月)を経過したこと、外来における診察に際し、呼吸、脈拍、血圧、心音、心〓音界に全く異常を認めなかつたこと、昭和四九年一〇月、翌五〇年一月における胸部X線像及び心電図に異常がなかつたこと、患者の状態に関し、問診の結果、心疾患特有の症状、すなわち胸痛、腹痛、嘔気、体動時の顔色の変化、呼吸、動悸などの異常がみられなかつたこと。

4  本件当時血栓形成阻止のためにワーフアリン等の抗血液凝固剤を使用することは、一つの提唱にすぎず、実験段階にあつた。現在では、抗凝固剤ではなく抗血小板剤(アスピリン等)が用いられているし、アスピリンによる予防が主流を占める時代になつても川崎病による死亡を防止することはできない。被告本多がワーフアリンを使用しなかつたことについて義務違反も過失もない。

5  生活指導について、少々の激しい運動が血栓形成を誘発するとの医学的なデータは存在しない。運動制限をする必要はない。

6  後遺症について、被告東京医科大学附属病院を退院するとき、主治医から少くとも半年間は毎月外来で様子をみること、その後も三年位は時々外来通院するよう指示し、突然死もありうることを告げているし、昭和五〇年四月一七日まで経過観察、治療を続けていることは前記のとおりである。突如来院しなくなり、その間の症状についてなんら情報が得られなかつた被告らが、四七日後の興昭の突然死について責任を負うべきいわれはない。

7  以上のように、被告本多は興昭に対し、その入院中はもちろん退院後においても、当時の医療水準に基づいた適正な診療をした。急性期死亡の可能性があるのは一般的に六〇病日までとされていた。その期間を経過した一七〇病日後の状況も、死亡の可能性を疑わせるものはなかつた。発病後九か月余を経過した時点でどのような機序のもとに急速に血栓が生じたか、理解をこえるものといわざるをえない。被告東京医科大学に何ら債務不履行はないし、また被告本多に何ら不法行為となる注意義務違反も過失もない。〈以下、事実省略〉

理由

第一興昭の発病、診療契約の成立、興昭の入院から死亡までの診断の経過の概要等

一請求原因1の事実(当事者の地位)は当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、請求原因2(一)の事実(興昭が被告東京医科大学附属病院に入院するまでの経緯)を認めることができる(昭和四九年八月一六日被告東京医科大学附属病院に来院したことは争いがない。)。また、請求原因2(二)の事実(本件診療契約の成立)は当事者間に争いがない。

二被告東京医科大学附属病院における興昭に対する診療の経緯

1  入院中の診療

〈証拠〉によれば、被告らの反論1(一)、(二)の事実(入院時の診断、入院中の検査、治療の経過)及び次の事実を認めることができる。

被告東京医科大学附属病院小児科は、教授一名(被告本多)を頭に助教授一名、講師、客員講師、非常勤講師各二名、助手一〇名、臨床研究員若干名で構成され、外来診療担当の湯沢医師は約一〇年、興昭の主治医である牛山医師及び牛山医師が不在のとき代つて診療を担当した川上医師はいずれも約二年の経験を有していた。本件当時小児循環器科、小児心臓外科の専門医は配置されていなかつた。被告本多は、小児科全体の責任者の地位にあり興昭の入院時にも湯沢医師及び牛山医師が診察したあと自らも診察して牛山医師と同様の所見をもち、治療方針として、水分補給のため点滴(ソリタT3及び各種ビタミン)をし、ケフレックス(八〇〇ミリグラム)、プレドニン(三〇ミリグラム)などを投薬することとした。その後も逐次牛山医師から報告を受け、毎週金旺日には自から回診している。

八月一七日 発熱(三八度程度)があり、心収縮期雑音(Ⅰ)が認められた。

肝腫大も認められたが、髄膜刺激症状はなかつた。治療方針として、症状の改善がなければプレドニンを四〇ミリグラムにすることにした。血液検査所見は、白血球数二万六三〇〇、血小板数四六万二〇〇〇、ASLO(抗ストレプトリジン価)五〇単位、CRP(C反応性蛋白)陽性六(+)以上、RAテスト陰性であつた。

八月一八日 発熱があり、赤沈値の亢進が認められた。肺の呼吸音に異常はないが、肝腫大が認められた。

八月一九日 頸部の痛みが強くなつた。心収縮期雑音は不明。肝を一横指触知した。心電図は正常であつた。

八月二〇日 頸部リンパ節に痛みを訴えた。肝触知三横指。点滴を中止した。血液検査所見は、白血球数三万三〇〇〇であつた。

八月二一日 全身状態良好となる。咽頭は発赤し、肝を三横指触知した。

八月二二日 心収縮期雑音(Ⅰ)〜(Ⅱ)があり、肝触知三横指であつた。

八月二四日 顔が満月様になり始めた。両手足の指が落屑し始めた。心雑音はないが、肝腫大は以前同様であつた。治療として、ケフレックスをクロマイパルミテートに変更した。プレドニンを減量する見込みとした。

八月二五日 全身状態は良好であつた。心収縮期雑音(Ⅱ)が認められた。プレドニンを三〇ミリグラムに減量した。

八月二六日 心電図は、ST低下、PR・PQ間隔延長、CRPは陽性二(+)であつた。

八月二七日 全身状態良好で、心雑音はなく、全指に落屑が認められた。心胸郭係数51.3%で正常、前日の心電図検査の結果により、プレドニンを一〇〇ミリグラムに増量した。血圧は、一〇四―五六(普通)であつた。

八月二八日 全身状態良好で、心収縮期雑音(Ⅱ)があつた。血液検査所見は、白血球数一万九七六〇、血小板数七三万五〇〇〇、心電図は正常であつた。

八月二九日 手足の指に落屑が認められた。心雑音はなかつたが、肝腫大があつた。

八月三〇日 肝は二横指触知したが、軟かくなつた。赤沈一時間値五七であつた。

八月三一日 全身状態良好、肝を二横指触知した。

九月二日 白血球数一万六二〇〇、血小板数五三万六〇〇〇、CRP陽性二(+)、心電図は正常であつた。

九月三日 全身状態良好で、心収縮期雑音(Ⅱ)、プレドニンを八〇ミリグラムに減量した。

九月四日 全身状態良好で、特に異常はない。白血球数二万一五〇〇であつた。プレドニンを五〇ミリグラムに減量した。

九月五日 全身状態良好で、肝を二横指触知した。心電図は正常であつた。

九月九日 肝二横指触知した。

九月一〇日 肝一横指触知、白血球数一万二二〇〇であつた。

九月一一日 心収縮期雑音(Ⅰ)、肝一横指触知、CRP陽性二(+)。プレドニンに代えてリンデロン0.5ミリグラムを投薬した。

九月一二日 全身状態良好で、心収縮期雑音(Ⅰ)、心電図は正常であつた。

九月一三日 全身状態良好で、心音が少し不整であつた。

九月一四日 全身状態良好で、CRP二(+)であつた。

九月一七日 全身状態良好で、心収縮期雑音(Ⅱ)、白血球数七五〇〇、血小板数三五万、CRP陽性0.5(+)、心電図は正常であつた。

九月一八日 全身状態良好、心収縮期雑音は立位で消失した。

九月二〇日 全身状態良好で、赤沈値一七であつた。

九月二四日 CRP陰性となる。

九月二七日 赤沈一時間値10.2時間値二五となる。

一〇月一日 退院した。

以上の事実が認められる。原告喜代子の供述〈は〉信用することができず、(原告喜代子の本件についての対応は後に認定するところであるが、これにはかなり問題があると思われ、母親としての気持は理解できないではないにしても、その供述は主観的でありそのまま採用することはできない。これに対しての第一号証の記載内容は、医師の判断を含むにせよ、客観性が認められ、信用性は高いとみてよい。このことは繰り返さないが、以下の判示においても同様である。)他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

2  退院に際しての説明

〈証拠〉によれば、被告東京医科大学附属病院では、退院時の生活指導、注意事項の告知は慣習上主治医がすることになつていたこと、牛山医師は、興昭の退院に際して、その母である原告喜代子に対し、退院後少なくとも半年間は毎月、その後三年間位は時々外来通院すること、突然死があるので場合によつては再入院もあるが、外来で心電図をとつていればその予想がつくこともあるので、頻回とつた方がよいことを説明したことが認められる。

3  退院後の通院診療

当事者間に争いのない事実と〈証拠〉により認められる事実は、次のとおりである。

昭和四九年一〇月一五日 全身状態良好で、白血球数七二〇〇、血小板数三九万三〇〇〇、赤沈一時間値7.2時間値二三、CRP陰性であつた。

一〇月一八日 心電図検査をし、結果は正常であつた。

一〇月二四日 頸部がこる、との訴えがあつた。右頸部リンパ節が米粒大に触れるが、圧痛はなかつた。頸部筋肉に異常はなく、頸部レントゲン撮影をしたが、異常がなかつた。血圧九八―五八、脈拍七五/分。幼稚園への通園を許可した。DANトローチ及びシノミンシロップを処方した。

一〇月三一日 全身状態良好で、血圧九八―六二、赤沈一時間値8.2時間値二〇であつた。自転車に乗ることを許可した。

一一月七日 頸部の疲労感は継続するが、肩がこるとはいわなくなつた。原因解明のため、整形外科に診察を依頼した(同月一一日に、レントゲン検査の結果特に異常は認めない、との回答があつた。)。

一一月一一日 舌先にビランがあり、舌の痛みを訴えた。疲労感があり、咽頭がやや発赤し、左頸部リンパ節が小豆大を呈していた。脳波検査を同月二五日にする予約をした。

一一月二一日 頸部に関する訴えはなくなつたが、舌の痛みと咳嗽を訴えた。

一一月二五日 脳波検査をし、結果は正常であつた。

一二月一二日 左頸部リンパ節を触知した。ほかに異常はなかつた。年末の長野への一週間くらいの旅行を許可した。

昭和五〇年一月二〇日 全身状態良好で、赤沈一時間値5.2時間値一〇で正常、胸部レントゲン・正常、心電図・正常であつた。

一月二七日 首に疲労感を訴えた。咽頭にやや発赤が認められた。

四月一〇日 心音は清で、左頸部リンパ節はエンドウ豆以下に触れた。白血球数六六〇〇、赤沈一時間値6.2時間値一八であつた。

四月一七日 全く異常がなかつた。

三興昭の死亡

1  興昭が昭和五〇年六月四日死亡したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、右興昭の死亡原因は川崎病の後遺症である冠動脈血栓症であつたこと及び右冠動脈瘤は、発病後比較的早い時期に生じていたものであることが認められる。

2  〈証拠〉によれば、興昭は、被告東京医科大学附属病院を退院した後死亡するまでの間に、別紙大塚病院小児科外来診療録(訳)記載のとおり、都立大塚病院で診療を受けたことが認められる。

第二川崎病について

本件の判断に当つては、本件診療当時川崎病についてどの程度医学上の研究が進んでいたかの点が当時の医療水準との関連で重要であるので、まずこの点について検討する。

〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができる。

一症例の報告とその後の研究の概要

本症は正式には「急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群」といい、川崎病というのは最初の症例報告者の名前にちなむ通称である(本判決でも一般にわかりやすい「川崎病」を用いている。)。英語ではMuco-Cutaneous Lymphnode Syndro-meといい、その略称「MCLS」もしばしば用いられている。

昭和四二年、川崎富作(日赤医療センター小児科医師)は雑誌アレルギーに「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺症候群」という表題で論文を発表した。これが川崎病に関する文献による最初の報告である。川崎医師が昭和三六年一月にはじめて川崎病の症例に接し、以後六年間に体験した五〇の症例の臨床観察をまとめたものであつた。これをきつかけとして、以後、川崎病に関する研究や調査が行なわれるようになり、昭和四五年には厚生省医療研究助成補助金による川崎病研究班が発足し、相当の研究成果をあげ、診断、治療方法も次第に改善されてきたが、後にも述べるように、その発症の原因は現在でもなお解明されておらず、したがつて決定的な治療法も確立されていない。昭和四六年頃からは、新聞紙上にもとりあげられて報道され、一般の関心も高まりつつあつた。

二診断

昭和四五年に発足した前記川崎病研究班は、川崎病の全国的疫学調査に際し、川崎病の定義を明らかにするため、同年九月に「診断の手びき」を作成した。右手びきはその後昭和四七年九月、四九年四月及び五三年八月に改訂が行なわれた。本件当時のものである四九年四月の改訂によるものは、次のとおりである。

「本症は主として四歳以下の乳幼児に好発する原因不明の疾患で、その症候は以下の主要症状と参考条項とに分けられるが、六つの主要症状のうち、五つ以上の症状を伴うものを本症として取扱う。

A  主要症状

1 抗生物質に不応の五日以上続く発熱。

2 四肢末端の変化:〔急性期〕手足の硬性浮腫、掌蹠ないしは指趾先端の紅斑。〔回復期〕爪皮膚移行部からの膜様落屑。

3 水泡、痂皮を形成しない不定型発疹(体幹に多い)。

4 両側眼球結膜の充血(一過性のことがある)。

5 口唇・口腔所見:口唇の紅潮、苺舌、口腔咽頭粘膜のびまん性発赤。

6 急性期における非化膿性頸部リンパ節腫脹(一過性のことがある)。

B  参考条項

しばしばみられる症状または所見

1 心血管系:心電図の変化(PQ、QTの延長、低電位傾向、ST、Tの変化、不整脈)。異常聴診所見(頻脈、心雑音、奔馬調律、微弱心音)。

2 消化器:下痢、嘔吐、腹痛。

3尿:蛋白尿、沈渣の白血球増多。

4 血液:①核左方移動を伴う白血球増多、②軽度の貧血、③赤沈値の促進、④CRP陽性、⑤α2グロブリンの増加、⑥ASO値は上昇しない。

時にみられる症状又は所見

5 呼吸器:咳嗽、鼻汁。

6 関節:疼痛、腫脹。

7 その他:①髄膜刺激症状、髄液の単核球、蛋白などの増多、②軽度の黄疸あるいは血清トランスアミナーゼ値の上昇。」

右のほかに、備考として、

「1 本症候群の性比は1.5:1で男児に多く、年齢分布は四歳以下が八〇%を占め、死亡率は一ないし二%である。

2 再発は二%内外にみられる。

3 心電図所見としては心筋炎様、心外膜炎様または虚血性変化を示し、今までの剖検例ではほぼ全例に冠動脈瘤と血栓性閉塞および心筋炎を認める。

4 本症経過後心筋硬塞様症状や僧帽弁閉鎖不全の発生をみることがある。」

ことが、発表されている。

三病因

川崎病の原因については、溶連菌との関係を重視する者、ブドウ球菌説を唱える者、真菌を重視して検索をすすめる者、トキソプラスマの可能性を推定する者、ウィルス感染が発症への引き金となることを推察する者、血液から分離したリケッチアの微細構造について研究する者、合成洗剤による過敏症を推察する者、水銀に対する過敏反応であろうと推論する者などがあり、多くの研究者によつて様々の見解が発表され、それぞれについて研究が進められている。しかし、現在でも川崎病の原因は不明とされており、したがつて発生予防対策も皆無と言わざるを得ないし、万全の治療方法も確立していない状態である。

四後遺症――冠動脈瘤

1  昭和四五年頃は川崎病の予後はよいとされていたが、昭和四七年に死亡例があることがわかり、昭和四八年になつて、川崎病に罹患すると急性期に冠動脈病変を生じ、はじめの二か月に冠動脈の閉塞に由来する急性死が多く注意を要するし、死亡に至らない症例にあつても、その半数以上に冠動脈に動脈瘤や狭窄がみられることがわかつてきた。冠動脈瘤内に血栓閉塞が生ずると急性死したり、心筋梗塞発作を起こすことがある。この冠動脈病変は自然に修復される場合があることが確認されているが、川崎病独特の所見である。自然修復されないときは、後遺症として残ることとなる。

2  冠動脈病変は、冠状動脈造影によつて正確な診断を下すことができるが、冠状動脈撮影は、大腿動脈を切開してカテーテルを入れ、キューブを通つて大動脈弁上部で造影剤を注入し、レントゲン撮影をする方法で、専用の設備と高度の技術を要する。ことに、これを幼児に対して行うことは極めて高度の技術を要し、大腿動脈が閉塞したり、心臓が不整脈を起こしたり、実施中ショック症状を呈することもあり、急性心停止を起こす危険も伴う。日本では昭和四八年六月、東京女子医科大学において、本症経過後七ヶ月目に突然心筋梗塞発作を起こした男児に対して、初めて冠動脈造影を行い、翌四九年一月に、それまでに実施した一〇例について報告された(甲第一二号証)。同大学では、当時、患児の親からの要請があれば造影をするようにしていたが、まだ研究中であつたこともあり、医師の側で造影させてほしいと言つても同意されないことが多く、冠状動脈造影による検査を受けたくないという患者の方が多い状態であつた。同年中に、久留米大学からも冠動脈造影の実施例が紹介され(甲第一三号証)、昭和五〇年度には、川崎病研究班が後遺症研究のため全国数ヶ所の大学等にできるだけ冠動脈造影を多く実施するように依頼した結果、翌五一年二月、造影を実施した患者の平均して約二〇%に冠動脈瘤があるという集計結果が出た。そこで、右研究班は、昭和五一年度は、後遺症を残す症例の区別、後遺症に対する治療を研究テーマとした。

3  昭和五〇年当時、被告東京医科大学附属病院には冠動脈造影をする設備・技術がなかつた。東京都内では東京女子医科大学の次に国立小児病院が冠動脈造影を始めたが、三番目の日本大学が始めたのは昭和五〇年から五一年にかけてであつた。全国的にも、前記川崎病研究班の依頼に応じて札幌医科大学、自治医科大学、京都大学など数ヵ所が始めたにすぎない。

4  冠動脈造影の適応については、昭和四九年の前記久留米大学の報告やその後の同大学の報告(甲第一一号証)が最初のものであるが、これは症例が少ないこともあつて、川崎病の研究者にとつても参考程度のものにすぎなかつた。症例を重ねたうえで適応基準を示すスコア表が作成され、紹介された(乙第一二号証)のは、昭和五一年七月になつてからである。

五治療

先にも触れたが、病因が不明であるため、確立した治療法はない。副腎皮質ホルモンなど様々な投薬が試みられ、症状の軽減にある程度の効果があるとされているが、決定的なものとはいえない。冠動脈瘤の血栓形成阻止のためにははじめワーファリンが使用されたが、ワーファリンは使用法を誤ると出血、脱毛症状等の副作用をおこすことがあるため使われなくなり、現在はアスピリンが用いられることが多い。

第三被告らの義務違反の有無

原告らは、被告本多には興昭の入院期間中の臨床所見から冠動脈異常を疑い、冠動脈造影を行つてこれを確認し、適切な治療をして血栓形成を防止すべき義務があり、また、右後遺症による異変があらわれることを充分説明して、原告らが異常に気づいたときは直ちに被告東京医科大学附属病院へ診察を受けにくることができるようにしておくべき義務があつたのに、これを怠り、興昭の突然死を招いたと主張するので、以下、順次判断する。

一被告本多本人尋問の結果によれば、被告本多は、本件診療当時、前記認定の川崎病の一般的症状、冠動脈病変による急性死のおそれがあること、後遺症が残る場合があることを十分認識しており、興昭の診療に際しても、冠動脈病変の発症の有無に留意し、臨床症状のほかことに心音の聴診所見に慎重を期し、また、必要に応じて心電図検査、レントゲン検査も実施して冠動脈病変の発見につとめたが、特にこれを疑うべき所見は見当たらなかつた(昭和四九年八月二六日の心電図には異常があつたが、間もなく正常に復した)こと、同人の症状はどちらかといえば重症に属するものと判断されたが、危険度の高い二か月を無事に経過したことや、退院後の全身的状態も漸次良くなつていると見られることも総合して、〓方に向つていると判断し、検査の間隔も次第に長くしながら定期的に経過観察を続け、今後もその予定であつたことが認められる。

二原告らは、被告本多がより有効確実な冠動脈造影をしていれば冠動脈瘤を発見しえた筈であるのにこれを怠つた点に被告らの注意義務違反があると主張する。

確かに、興昭の症状はどちらかといえば重症であつたし当時、すでに川崎病の患者に対する冠動脈造影が実施された例があり、また一研究者によつて重症の川崎病患者には冠動脈瘤を残すことが多いとの指摘がなされ、その後の研究によつてこれが相当程度実証されるに至つたことはすでに判示したところである。しかし、すでに認定したとおり、昭和四九年当時は、冠動脈造影自体が最先端の技術として我が国に導入されて間もない頃であつて、これを行い得るのは東京都内では東京女子医科大学のみであつて、全国においてもわずかに数ヶ所の施設を数えるにすぎなかつたほか、ことにこれを幼児に適用するには場合によつては死の危険をも伴う困難な技術であつたこと、当時においても川崎病患者に対して冠動脈造影が実施され、これによつて冠動脈瘤が確認される例はあつたとはいえ、これらは研究段階における一つの試みとして実験的に行われるに止まつていたことを考慮すると、当時の一般の医療水準として冠動脈造影を行うべきであつたと認めるわけにはいかない。医師が患者の診療に際して一定の診断方法を採るべきかどうかを決定するに当たつては、ある病変が単に病理上考え得るということだけではなく、臨床所見及びその他の検査結果のほか、その診断方法の適合性の程度をも総合考慮して判断すべきものであり、ことにその診断方法が未だ一般化されておらず、しかも危険を伴うような場合にあつては、これを採用すべきかどうかの判断にはむしろ慎重さが要請されるといつてよい(その診断方法を採つたことにより不幸な結果が生じた場合を考えてみるがよい。)。ある診断方法を採用しなかつたことにより、結果として病変を発見するに至らず、死亡または症状の増悪に至つたとしても、だからといつてその診断方法を採用しなかつたことにつき医師の注意義務違反があつたというのは結果論であつて早計に過ぎる。法的責任は、医師に神業を求めるものではない。こうした観点から本件をみるなら、当時の医療水準からいつて被告本多が冠動脈造影をしなかつたこと(他院へ転院させてでも)について注意義務違反があつたとすることは、いかにも無理であるといわざるを得ない。

三興昭の臨床所見その他の検査結果には特に冠動脈瘤の形成を疑うべきものがあつたとは認められず、また、被告本多に冠動脈造影をしてでも冠動脈瘤を発見すべき義務を認めえない以上、右冠動脈瘤の存在を前提とする血栓形成を阻止すべき義務もまたこれを認めることはできない。仮りに原告らは、被告本多には冠動脈瘤の存在を発見するか否かにかかわりなく川崎病であれば常にその存在を疑い、血栓形成を阻止すべき義務があると主張するのであるとしても、当時の医療水準からいつて、危険度の高い二ヶ月間を無事に経過し、かつ退院後の状況もむしろ良好であつたにもかかわらず、いつまでもワーファリンの使用を続けるべきであつたと認めるに足りる証拠はない(すでに認定したように、ワーファリンには副作用があり、いまでは使われなくなつている。)。右主張も、結果論の域を出ない。

四退院後の生活指導についても、興昭が当時五才の男児であることを考えると、むしろ特に運動制限はせず、様子を見ながら通常児と同じような生活をさせた方がよいとする被告本多の指導に誤りがあつたとは認められない。原告喜代子があまりに神経質にすぎるのは、興昭の予後にはかえつてよくないと判断したという被告本多の供述がむしろ正鵠を射たものとして信用することができる。

五死亡につながる危険のある症状を説明すべき義務違反についても、被告本多が冠動脈瘤を発見していなかつたことにつき義務違反があつたと認めることができない以上、これを認めることはできない。原告らの主張が、仮に冠動脈瘤を発見していたと否とにかかわらず、すべての川崎病罹患者に説明すべきだという意味だとすれば、医師にそこまでの義務を認めるに足りる証拠はない。証人草川三治の証言によれば、川崎病の後遺症で死亡する直前に急に吐いたり、胸や腹が痛いという訴えがあることに着目し、昭和五〇、五一年ころから、急に吐いたり、腹痛を訴えたらなるべく早く来院するように指示しているというが、同証言によつても、すべての患者にかような指示ないし説明をするべきことが本件当時の医療水準になつていたとは認められない。しかも、原告喜代子、被告本多の各本人尋問の結果によれば、原告喜代子は新聞報道等で川崎病が心臓に後遺症を残す例があることを知つていて、心電図検査等を希望するなど必要以上に神経質になつていたことが認められ、被告本多本人尋問の結果によれば、被告本多としては、原告喜代子に退院時の牛山医師の説明以上に突然死の危険を説明することは同原告の不安をいつそう助長することになり、大局的にみて興昭の回復にかえつて障害となると考え、あえてそれ以上は話さなかつたことが認められる。後にも触れる原告喜代子の態度ともあわせ考えると、被告本多の右の措置は決して義務違反といわれるようなものではなく、むしろ興昭の回復のためを考えて医師として適切な対応であつたと考えられる。原告らの説明義務違反の主張は採用できない。

六最後に、原告喜代子の本件についての対応についてここでとりまとめて触れておく。見方によつては、本件紛争のポイントとも考えられるからであり、被告らの責任の判断にも影響を及ぼさざるを得ない(被告本多は、同原告の態度を考慮して対応していると認められる。)からである。

〈証拠―新聞、日誌、家計簿等〉によれば、次の事実が認められる。

原告喜代子は、興昭の発病以来、極端に神経質になり、山口病院で病名がわからないと言われると直ちに山口医師を無責任であると非難し、本件診療契約締結後も、病状、診療内容について細かく医師に質問し、その状態、医師の発言等を逐一メモして一喜一憂してきた。川崎病について新聞報道される度に、被告本多にその記事を示して後遺症についてしつこく尋ね、興昭に後遺症がないかどうか、心電図をとつて検査してもらいたいと要請した。被告本多は、小児科専門医として当時川崎病について研究発表されていた事項についてはおおむね承知していたが、原告喜代子があまりに神経質に後遺症のことを気づかうので、そのような親の態度は興昭のためにかえつて妨げになると考え、また、診察の結果後遺症を残している徴候はみられなかつたので、その都度、検査の必要性は医師の判断にまかせてもらいたい、目下後遺症の心配はないと告げていた(報道記事は、一般人の啓蒙には有意義であるにしても、専門家の眼からみると必ずしも正確でない場合もあり、直接診療を担当する専門家としての被告本多がこのように対応したことはむしろ当然であろう。)。川崎病の後遺症がどのような症状で発現するかについては、原告喜代子が新聞記事を読んで後遺症の内容を熟知し心配していたため、その心配を助長することになるのを恐れてあえて説明しなかつた(この点も別に問題とされるべき筋合がないことは先にも判示した。)そのため原告喜代子は、被告本多に対し不信感を懐くようになつた。昭和五〇年一月二七日被告本多の診察を受けたのち、二月一二日に興昭が三九度の熱を出したときも、被告東京医科大学附属病院へはなんら連絡せず、二月一四日に都立大塚病院で診察を受け(腺窩性アンギーナ、次いでリンパ節症と診断された。)、小康を得たあとも三月二六日まで計一二回通院し、そのことについて、四月一〇日に被告本多の診察を受けたときには、熱を出し他の病院で診察を受けた旨報告しただけであつた。右大塚病院でも、三月二六日に一か月後もしくはリンパ腺がはれたときに検査を受けに来るよう指示されたにもかかわらず受診していない。五月三〇日に腹痛があつたときも、被告東京医科大学附属病院ではなく、大塚病院の診察を受けている。興昭の死後、解剖の結果、死因は川崎病の後遺症による冠状動脈血栓症であることを知つて一途に被告本多の誤診による死亡であると思いこみ、後に興昭が死亡したことを伝え聞いた被告本多が弔問に訪れ弔意を述べたときの問答まで記録した。

右に認定したとおり、原告喜代子の医師への不信感は強く、少くとも医師との信頼関係に欠ける面があつたことは否定できない。この原告喜代子の気持が本件提訴に関連しているように思われる。ちなみに、原告喜代子は、興昭の死亡を知つた被告本多が弔問に際して述べた言葉すら被告本多が自ら過失を認めた証拠であると考えているふしがある。しかし、しばらく来院もなく、経過がよいのであろうと考えていた被告本多が、手がけた患者である興昭の死を伝え聞き、弔問に訪れ、「力が及ばず申しわけない」と述べたとすれば、そこにはむしろ被告本多の医師としての良心というか、誠意を汲みとるのが通常の受け取り方ではなかろうか。わが子の死を嘆く母親の心情は理解することができるし、興昭の死を無念に思うあまりのことではあろうけれども、原告喜代子が被告本多のこの発言を、自らの過失を認めたものとする考え方には当裁判所は到底賛成することはできない。あえて取り上げて指摘しておく。

七以上判示のとおり、興昭が川崎病と診断され治療を受けていた当時、川崎病については、原因についても治療方法についても研究がようやく軌道に乗りだした段階にあり、特に最も確実に後遺症の発見に役立つ冠動脈造影はむしろ危険を伴うものとして一般に普及した検査方法ではなかつたのであつて、被告本多が興昭の冠動脈瘤を発見することができなかつたことを責めることはできず、興昭が冠動脈瘤に血栓症を生じて死の転帰を来したことが、被告東京医科大学の診療債務の不履行又は被告本多の不法行為によるものと認めることはできない。〈以下、省略〉

(上谷清 大城光代 小林昭彦)

別紙〈省略〉

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